卓話 2021年07月29日
講談・渋沢栄一ものがたり
講談(講釈)というのは歴史のお話を口一つでさながら見てきたように口演する芸能です。「講釈師見てきたような嘘をつき」と川柳にも詠まれました。ですから、今回お話します渋沢栄一ものがたりも眉に唾をしながらお聴き下さい。
渋沢栄一はとても長命でしたので、幕末の天保年間に生まれてから、明治、大正、昭和の初めまで活躍し、現在も日本を支える大企業の多くを立ち上げました。彼はよく“日本の資本主義の父”などと言われます。それは、幕末に一橋藩の家臣となった事と大いに関係があります。一橋家の当主・慶喜(水戸家からの養子)が、徳川第15代将軍となり、薩摩や長州と対峙しなければならなくなりました。殊に薩摩はイギリスと関係を深くし、西洋の進んだ文明(主に武器)を入手していました。幕府はフランスと手を結び対抗する事にしたのですが、そのフランスの首都パリで万国博覧会(万博)が開催される事になります。慶応3年(1867)、徳川幕府最後の年でした。薩摩はイギリスの援助で独自に出展を決めていたので、幕府が何もせずにいると、日本の代表は薩摩であると認識されてしまう。故に、将軍慶喜は、自身の弟・徳川昭武を正式な日本代表として、使節を派遣する事にします。その時、会計掛り兼代表のお世話掛りとして渋沢栄一が指名されたのです。
渋沢は初めての西洋で資本主義(合本主義)を会得して帰国するのですが、再び日本の国土を踏んだ時には、既に政権は徳川幕府ではなく薩長を主体とした明治新政府と変わっていました。浦島太郎の心持ちであったに違いありません。慶喜は将軍職を剥奪され、新政府に恭順の意を示し、駿府(静岡)で謹慎の身の上となっていました。渋沢は心の内に最後のご奉公として静岡へと行き、フランス滞在の会計報告を慶喜に行いました。その額面を見て慶喜は驚きます。というのは、2年近くの滞在であったのに所持金は出発前より増えていたのです。実は、渋沢はフランスの国債を購入したのですが、これが跳ね上がり大きく儲けていたのです。
慶喜は、静岡は徳川直轄地であった為、明治の世となり沈滞化が激しく、経済の立て直しを渋沢に頼みます。そこで渋沢が取ったのが合本主義だったのでございます。これが大いに成功し、明治新政府の目に止まり、中央へ呼び寄せられる事になるのです…物語はココからが面白いのですが、それは当日のお楽しみでございます。